ひろげよう創造と連帯
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WEB情報誌
『GOURIKA』

特集記事02
借金20億、倒産寸前の会社を継いだ3代目が挑む
「毎日がちゃんと幸せな会社」

いま地域に根差した発展企業に

井上株式会社

井上株式会社
代表取締役
井上 大輔 氏

■12年後に限界利益(粗利)が倍、限界利益率16%から30%へ

当社は、大阪府経営合理協会さんから2024年「学生に知ってほしい働きがいのある企業賞」の大賞をいただきました。そのご縁で、今回、このようにお話をさせていただくことになりました。
私は今年の9月で51歳になります。福知山生まれ、福知山育ちですが、中学からは岐阜県の全寮制の学校に行き、大学は千葉で、その後イギリスに3年、インドネシアのバリ島にも3年居て、29歳で何年かぶりに福知山に戻って来ました。山登りやロッククライミングなどが好きで、山をすごく楽しんでいます。もう1つ付け足させていただきますと、4月に「毎日がちゃんと幸せな会社をつくる」というタイトルの本を出版しました。その本の帯に「カネなし、モラルなし、ビジョンなしの倒産寸前の会社が『幸せ』をとことん追求したら、『アワード常連企業』に成長」と書かれておりまして、「❝最幸❞に働き続けるために必要な『信頼資本経営』とは」とあります。本日はそのあたりをお話ししたいと思います。 
本のタイトルの通り、毎日がちゃんと幸せで成長する良い会社をつくるということを、会社経営の大目的としています。今風でいうパーパス、理念とかビジョンということになると思います。創業は1947(昭和22)年1月で78年目を迎えております。社員数は132人。私の祖父が創業した会社で、株式は全部集約して、私が100%持っています。これにはいろいろな事情がありまして、後ほどご説明します。事業概要は、近畿エリアを中心に電気設備資材卸、弱電・制御・通信などの電気設備システムの設計、製作、施工、ソフトウェア開発などのソリューションサービスを行っています。電気のことに関しては、高圧から低圧、弱電、計装、あらゆることをやりますし、システムもAIからIoTまで全部やっているというような会社です。大きな建物の中のエネルギーマネジメントなどもしていますし、例えば、伊丹空港の中の駐車場のシステム、京都伊勢丹、大阪では難波パークスの駐車場のシステムも当社のシステムです。ほかに、官公庁関係では、この福知山市と舞鶴市の飲み水の制御システムを手がけ、蛇口をひねればちゃんと水が出る、足りなくなったら川から取水して飲み水にしておくというようなことに取り組んでいます。ほかに廃校を利用したイチゴ栽培なども手がけています。
本日は、そういった当社が取り組んでいることをお話ししますが、その前に私がこの会社を継いだときのことから聞いていただこうと思います。2003年に3代目として継いだのですが、その時、借金が20億円ありました。債務超過だったのです。私の父がちょっとやんちゃっていうのですか(笑)、何でもやりたがりで。当時、バブルの関係もあって、銀行がカネを貸し、使えと言ってくれるので、まあいろんなことやっていました。それが、全部だめだったのです、見事に全部。バブルがはじけ、デフレになると、当然、銀行の方からの「貸したカネを返せ」という締め付けも大きくなっていくわけです。実は当時、福知山の地元の金融機関さんが「これはもうつぶさないといけない企業リスト」をつくっていたみたいで、そのリストの上から3つ目に当社が入っていました。1つ目は自主廃業されて、2つ目はつぶれたらしいのですが、3つ目の当社に対しては、条件が付きつけられました。まず、代を変わること、経営者を変えなさいということと、タナベコンサルティングさんの支援を受けること。この条件で挑むなら、地元の金融機関が乗るというか付き合ってあげるという話でした。
このとき、私はバリ島のホテルで働いていましたけれど、急遽呼び戻されて会社を継ぎ、まあそこからが大変でした。しかし、いろんな協力者を得て、いろんな人と歩んでいくなかで、2011年に第二創業宣言をしました。「働く誰にとっても毎日がちゃんと幸せな会社を目指したい」という宣言をしたのです。今だったら、「それは大事だ、良いことを言うな」と思われるかもしれませんが、当時の借金だらけの債務超過だらけのモラルもない、要するに社員さんが会社の敷地内でガムを吐いてそのままにしたり、少額の現金が消えたり、在庫のエアコンが一台なくなっているとか、そんな会社だったのに、「幸せな会社を目指す」と就任から8年後に言われた社員さんにしたら「え、何言っているの? 2代目もおかしかったけど、3代目も違う意味でおかしい」という風に思いますよね。私はすごく孤独というか、一人ぼっちでやらないといけないなという気持ちだったのを今でも覚えています。そんなスタートを切りました。
ですが、おかげさまで、12年後の2023年には人件費が1.5倍になり、うちの社員さんの年収は多分この地域では高い方だと思います。限界利益、皆さんの会社では粗利とおっしゃっているかもしれませんが、限界利益が倍近くなって、限界利益率、粗利率が16%から30%を超え、債務超過も消え、無借金経営になっています。同時に、うちの会社の社員さんが「ああしませんか、こうしませんか」という提案を10年間で5900件出してくれて、さらに年間に3万件ほど「ありがとう」という言葉が飛び交っているという、そういう会社に変化してきました。せっかく他人同士が同じ時間、同じ場所を共有し、自分の人生を使うわけですから、その時間と時期が価値あるものにならないかな、なったらいいのにと思いながら、当時は業績がどうなっていくかとかもわからなかったのですが、とにかくそういう会社づくりをみんなでしてきました、デコボコしながら。
我々、社内では売上という言葉は多分1ヵ月に1回も使いません。粗利しか社内では管理しないので、全然出てこないのです。もちろん、売上の請求はありますけど、売上ではなくて、ずっと粗利を上げてきて、実は過去最高益になるところまで今きています。おかげさまで、たくさんアワード(表彰)をいただくようになりまして、第二創業宣言をしてから7年後の2018年に「京都経営品質賞優秀賞」をいただき、そこから少しずついろんな団体、市町村からいただくようになり、直近では❝アトヅギアワード❞とか、いきなり電話をもらって、ソーシャルグッド部門賞を受賞しましたと言われ、最初は詐欺かもと思ったのですが、調べたらちゃんとしたアワードだということで、「では、いただこうか」と(笑)。モノづくりの方でも、AIのシステムを表彰していただいており、少しずつこういう結果も出てきています。

■モラルが低下し、文句ばかりの会社を変えた「信頼関係を大切にする経営」

どういう会社経営をしているのか?とよく聞かれますが、一番わかりやすく言うと、信頼関係が大切になる会社経営をしています。社員さん自身が井上という会社に参加したら、自分を信頼できる、自分というものをすごく大切にできる。それと同じぐらい同僚を大切にでき、また信頼できる。で、自分が乗っかっている船、会社を信頼できる。自分、仲間(同僚)、会社の3つに対する信頼があって、一生懸命仕事をしたら、お客さんを通じて社会から少しずつ信頼していただけるという、信頼関係を資本と考え、信頼関係を長い時間かけて築き大切にしてきた経営と言えます。
ただ、これを最初からわかってやっていたのではなく、なんとかみんなが毎日幸せになれないかなと考えていました。当時、私が会社に戻ってくると決まった時は、モラルもないけど、社員さん同士の仲も悪くて、お互いの悪口ばっかり言っていました。私はロンドンに3年、バリ島に3年居て、異文化とか違う人種の人たちがなんとかうまくやっていっているところに6年間住んでいました。この北京都のほとんど同じ顔つきの、同じ宗教の、同じ方言をしゃべっている人たちの仲が悪いというのが、もうすごいストレスでした。なんで人間はもっと仲良くできないのだろうか。会社はつぶれかけていて、何のために私が経営しているのかもわからない。社員さん一人ひとりの顔色も良くない。「こんなんでは…」と悩む中で、毎日がちゃんと幸せな会社を目指して、自分や周りを信頼して大切にするということを何とか醸成していこうと考えたのです。
もちろん、会社経営ですから、経営品質の勉強もしましたし、タナベコンサルティングさんとも仲が良かったので、経営のメソッド、制度ややり方、環境づくりを徹底して行いました。最初は私が全部つくって修正していましたが、その後は社員さんが全部修正してくれています。今はもう社員さんの意見や考えで、どんどんブラッシュアップされていっています。社内での成長機会をどうつくるのかということで、我々、社内大学みたいなものもつくっています。一日そこで過ごす場が、安全・安心・機能的で良いとかだけではなくて、人間関係が良く、ストレスも少ないように職場環境の改善をし、働き方、成果分配、福利厚生なども含めて、毎日がちゃんと幸せであるために、例外をつくらない経営を目指しました。で、社員さんにもどんどん経営参画してもらい、必ず意見を言ってもらう、提案してもらう。出してもらったら、必ず1ヵ月以内に返事をするようにしてきました。
先ほど申し上げたように6000件ぐらい、この10年間で社員さんから提案されているのですけれど、そのうちの2000件、1/3は「経営的にこんなんどうですか」といった内容で、その2000件、私が返しています。それは2000回社員さんと経営議論しているのと同じです。ということは、どんどんどんどん社員さん側が経営者マインド、経営者的な考え方を身につけていく。そして、どんどんどんどん自走していってくれます。最初は自走したいと思ってもできなかったけれど、社員さんがこの井上ではどうあるべきか、どうしたらいいのかということを考え始めてくれたのです。最初は「言いたいこと言ってね」と頼み、「この辺汚いので綺麗にしませんか」とか「もっと新しい機械使わせて下さい」とかいうレベルでした。工具もそのころは買えなかったので、うちのすべての機械に強い優秀な社員さんの一人が、お客さんのところで、自分のノートブックを立ち上げるのに古いのを使っているので、15分ぐらいかかりました。そのお客さんが心配されて、「お前のとこ大丈夫か?」と言われたそうです。そんな状況下で、社員さん一人ひとりが毎日幸せで、成長できる会社にデザインしていこうということを、ずっとこの十何年間やってきた、という感じです。
実は、「京都経営品質賞優秀賞」を2018年にいただいて、その時の経営品質の評価がなかなか厳しくて、表彰していただいているのに、そのコメントが「革新的組織の入り口に立っている」だったのです。「え、どういうこと?」と思いましたが、まだ入り口で、登ってないけど、これから登れるのではないかと思わせるような会社だった、頑張れというような評価だったのです。なんかありがたいのか、まだ今からなのだろうか、と思いましたが、「じゃあ頑張ろう」と、2020年に2030年までの次の10年どうするというテーマに取り組みました。
私を除いた経営幹部8人で考えたことは、「いろいろな関係者を幸せにしなかったら、自分たちも幸せになれないのではないですか」というものでした。私は「いや、それはちょっとビジョンとしてでかいな、電気で儲けるとか、そういう話じゃないの?」と思ったのですけど、「いや、それはそれでやるけど、やっぱりせっかく自分たちが幸せになりたいことに気づいたので、関係者がさらに幸せになることがいいんじゃないですか」と言うから、「いいっちゃいいけど、うちのような小さな会社がそんなビジョンを掲げていいのかな」などと話し合っていたときに、「ちょっとずつ、できることから始める、でいいのではないでしょうか」という意見が出て、「スパイラル」という表現を使うことになったのです。スパイラルとは螺旋形状という意味で、小さいことから始めて、それが渦のようになって、螺旋パワーで大きくなっていけばいいという思いを込めて「ハッピースパイラル2030」と名付けました。
もう一つ、2年前から、「長期的に❝最幸❞に儲けよう」という目標にも取り組んでいます。最幸というのは、「毎日がちゃんと幸せ」ということで、長期的に儲けようというのは、「ステークホルダーと良い関係をつくろうと思ったら、必ず相互に利益が残らないといけないし、利益がないと長期的な関係は生まれません、たくさん儲ければたくさん分配できるよね、たくさんのステークホルダーに使えるよね」ということで始めました。そうしたら本当に儲かり始めたのです。「これ、もっと早くから言っておけばよかった」と思っています(笑)。

毎日がちゃんと幸せな会社をつくる

■変わること自体を大切にする経営スタイル、でも社員さんは変えない、地域の繋がりも守る

今からお話しすることは、大変僭越だと思うのですが、私は社会と組織はいつだって未完成だと思っています。社会では毎日たくさんの人が亡くなって、たくさんの人が生まれている。社会を構成している人たちがずっと流動している。つまり、ずっと未完成のまま走っているようなものだと思います。常に、未完成なものは変えていかないといけないし、修正していかないといけないし、メンテナンスしていかないといけないというのが一つです。
組織も同じですよね。人も入れ替わるし、組織が向き合っているマーケットも常に変化している。だから私たちは変わっていくことをすごく大事にしています。正しく変わることではなくて、変わること自体を大切にしています。よくうちの会社であるのが、社員さんからAプランが出てきて、検証しても良さそうなのでやり始めると。違う社員さんからBプランが出てきて、それも確かにいいなと始めると。またCプランが出てきて…と変わるんです。とにかく変えていくことを大事にしていて、最終的に出てくるZプランの方がいいのかもしれませんけれど、Z案を考えるより、とにかくいいなと思ったことをやり始めて、もっといい案が出たら変えていくということをずっとやっています。そういう経営スタイルというか、やり方をしています。
もう一つは、本当に釈迦に説法なのですけれど、あらゆる関係性から自分を解放しても、自分との関係からは降りられないということです。親子関係とか友人、いろんな関係性から自分を切り離しても、自分と自分との関係性は切り離せません。自分のそばにずっといちゃう、いちゃっている(笑)、この面倒くさい自分がここにいますよね。甘えもあれば、がんばる気もあり、わがままな気分というのもあって、そんな自分をどうするかということが、経営者はとくに問われるのだなと感じています。
幸せな会社づくりをしたいというのは、社会が要請しているというより、私の心の中から出てきたものです。私は幸せになっていきたいし、時間を共にして下さる社員さんも一緒に幸せになってほしいなというのが私の率直な心情でした。つぶれかけた会社でモラルもない、小口の現金がなくなったりするような会社なのに、辞めないんですよね、社員さんって。見方を変えると健気というか、なんていうか、なんか器用ではないのです。今だったら、「転職エージェント」ですぐ転職できるかもしれませんけど、当時の社員さんは、そんな明日つぶれると言われているような会社でも居るわけですよね。僕はそこにまあ惚れたというか、人間の不器用さってなんか美しいなと思ったのです。

happy spiral

このダメダメな3代目と社員さん、そんな私たちがどうやって再起を図っていくか。どんどん会社を変えていくのですが、今いる社員さんに辞めてもらってまで会社を変えるということはしてこなかった。今いる社員さんと一緒に歩むことの方がいいなって。「この純朴で不器用な、このおっちゃんたちと歩もう。」そこになんか面白みっていうか、私自身も自分の人生をかける何かがあるのではないかなと思ってやってきただけなんですね。
講演会などでよく聞かれるのは「何故、倒産寸前の会社を継いだのですか」ということなのですが、29歳でバカだったというか、世間を知らなかったというか(笑)。今、「20億の借金を背負いなさい」と言われたら、「ちょっとやめときます」と言うと思うのですけど、当時29歳で200万も20億も、そのゼロの大きさの重要度がわかっていなかった。で、その20億の借金にハンコを押した。その月末に7000万円足りないと経理から言われました。私はその時「えっ? その7000万円ってなんですか」みたいな(笑)。でも、経理の人に「ダメです、なんとかして下さい」と言われて、仕方なく、京都銀行さんに電話して、「7000万円足りないんですけど」と言ったら、「はい、大丈夫、代変わりしたら支援すると決まったので、貸しますよ」と繋いでもらった記憶があります。それぐらい何もわからなかったのです。
でも、私の中にあったのは、いただいたものを返さなければいけないなという気持ちでした。29歳まで生活させてもらえたのは、親がいて、親の会社があって、そこに社員さんがいて、地域があって、ということなので、そういう自分が恩を受けて今ここにいるのに、お前が継がないと会社がつぶれると言われた時に「いや、それ知りませんわ」とは言えなかったというのが、一つありました。それと、父がやったことの落とし前は、息子の自分がつけなあかんやろな、とも思っていました。あと、バリ島でホテルマンをしていましたが、ホテルマンの世界には何百万人という人がいますが、この会社を継げるのは世界人口80億人のなかで自分しかいない、その当たりを引いたわけです。本当は全然当たっていなくて、クソみたいなクジでしたが、それを引いた自分を、なんかこう大切にしないといけないのではないかと思った記憶があります。
そして、その当時、付き合っていた彼女、今の妻ですが、彼女のお父さんが「大輔君、それはやらなきゃダメだよ」と背中を押してくれたのです。自分の親父に「お前がやれ」と言われたら、反発して「なんでやらなあかんねん」と言っていたと思いますが、彼女のお父さんが「いや、大輔君、それはね、そういうあんたの人生だよ。やってみたらどうだい」みたいなことを言われたのを今でもよく覚えています。ちなみに「うちの娘が君と結婚するかどうかは、まあ反対しないけど、賛成もしないよ」とも言われました。自分の娘の彼氏が20憶の借金を背負っていたら、そうおっしゃるかなと思いますが、結婚できました(笑)。
「何故、働いている人の幸せにフォーカスしたのですか?」とも聞かれるのですが、どう見てもお金はなかったので、今更お金お金と言っても仕方ないなということと、純朴で不器用な社員さんたちの恩にも報いることができていないことに気づいたからです。創業以来ずっとこの会社を支えて下さっていた社員さんたちの努力、お客様に対する誠実な仕事ぶりがあったから、会社がつぶれていないのに、何も成し遂げられない自分では恥ずかしいというか、ダメだと気づき、社員さんも私も必ず再起しなくてはいけない。そう思ったとき、自分の心から湧き上がってきたのが、やっぱり社員さんたち他人同士が仲良く暮らす幸せな毎日が大切で、そういう会社にしたいなということでした。  
私は山登りをするのですが、山に登るにはいろいろなルートがあって、自分で決めることができます。会社経営においても、いろいろなルートがあるはずで、競争や分断なんかを我慢しながら歩いていくルートもあれば、優しさや思いやりに溢れた楽しいルートもあっていいかもしれないと考えたのです。ほかにも、タナベコンサルティングさんが推奨するルートもあれば、経営者の皆様がさまざまなご経験の中で培ってこられたルートもある。私は時間がかかってもいいので、楽しい思い出に残るルートを行こうと。それで会社がつぶれなかったらいいよなと(笑)。

山登り

当時、うちの会社は死にかけていましたけど、本業はかろうじて黒字だったのです。黒字であれば銀行さんもそこまでうるさく言わないので、黒字にしがみついて、とにかく楽しい会社というか優しい会社を作ろう、それには時間がかかるかなとは思いましたが、ただ日々みんなと一緒に歩いていこうみたいなことをずっとやってきたんですね。もちろん、いつか卓越した成果を生む組織になったらいいなっていうことを思いながら、成長する環境を社内にどんどんつくっていこうと決め、例外をつくらないでどんどんやろうと。
皆さんがよくご存知の通り、商売で何かを変えるには、お客様を変える、お客様に売るモノを変える、売り方を変えるの3つしかないじゃないですか。結局、売るモノは変えずにお客様を変えるか、お客様は変えないけど売るモノを変えるか。あとは売り方を営業が配達するのを変えてネットで売るとか、マーケティングして市場を広げるとか。我々にはその時、電気しかなかったので、電気のシステムという、唯一会社に残っているその力を、どうやって世の中に高く評価していただく方に持っていけるかってことをずっとやっていました。提供価値を変えられないかなとか、売り方も何とか工夫できないかなと。一つひとつ自分たちがやっていることを変えられないかなと取り組んでいたのです。ただ、新しいお客様にばかり目を向けて、これまでのお客様が困るようなことになれば、目の前の大事なお客様がなくなるので、そういうことがないように、従来のお客様の迷惑にならないところで新しいお客様を探したりとかですね、そんなことを、ひたすらみんなと一緒にやってきたら、粗利が倍になったり、粗利率も2倍になっていたみたいな。でも、それは結果です。
ある時は、我々がエンドユーザーである工場などに出入りするところを、お客様である電気工事の人に怒られました。自分たちの商売の邪魔をするなと。私たちのお客様のメインが電気工事屋さんだったので、やめとこうかとなったのですけれど、でも、電気工事屋さんが、私たちが欲しい制御の仕事を取ってきてくれるわけではないのです。やめてしまうわけにはいかないので、誤解されないよう制御の分野だけやらせて下さいと掛け合って、「ようわからんけど、お前ら電気の仕事はやるなよ」みたいな感じで承諾してもらい、うちは制御の仕事を取りに行けるようになりました。すると、制御や機器を入れ替えるので、電気の工事が生まれ、その工事をお客様に回せるようになったのです。そうしたら急に「お前たちが営業してくれるんだったら、もっと行け」となって、「じゃあ行きます」ということで、今では本当に地元の電気工事屋さんが応援して下さっています。

■社員さんを信頼し任せて進む、個人差あっても前向き集団に

当社の場合、信頼関係がベースにあるから、情報を共有できたり、主体性を発揮できる環境づくりであったり、お互いを大切にし合う「ありがとう」の交換が常に行われる会社になれたと後になって気がつきました。情報の共有についてですが、うちの社員さんが自分で考えて自分でやるには、必要な情報がないとできません。
皆さん、「車を好きに運転していいよ」と言われて、「メーターは一切なしで」と言われたら怖いじゃないですか。ガソリンがまだあるのか、スピードがどれだけ出ているのかわからない状態で運転はできません。それと同じで、自主的に仕事をするには、必要な情報が常に手元になければなりません。我々は会社の情報を常に鮮度を高くしてオープンにしています。社員さんの個別の給料額以外は全部オープンで、社員さんは自分が仕事をするために必要な情報を常に取りにいける、常にタッチできるようにしています。そうすると、社員さんは自信を持って、チャレンジ精神で仕事をしてくれますから、それがお客様の価値になって、また依頼をしていただける。こういう会社経営をうちでは続けています。
商売によっては、そんなゆるふわな人の使い方では問題が生じてしまうかもしれません。とくに製造業では、ダブルチェックをかけるなど、安全や品質を保証しようと思ったら管理も大事になるかと思います。我々は営業とエンジニアの会社なので、事業的にもやりやすかったので、社員さんを信用して任せて、どんどんやってもらっています。それが社員さんのやりがいや幸せに繋がったらいいなと思っています。

社内

社員さん任せですと、一元管理に比べて個人差が出ます。個人差が出ることを慌てない、「まあそれは出るやろ」と受け止めていると、例えば、入社して3年目までちんぷんかんぷんだった人が4年目から急にバリバリ仕事をし始めて、バリバリ儲け出すということがあります。その人に何が起こったのかわからないですけど、そういう社員さんもいれば、本当に今までは文句ばっかり言っていた人が急に「ありがとう」と言い始め、周囲に優しくなるなど、なんかそんな人がいっぱい出てきます。「人は変わる。そして個人差がすごくある」ということは経験的に理解しています。
そんな個々を大切にしながら、仕事は実はチームでやっているので、誰々くんはA賞、誰それ君はB賞みたいな個人を競わせるような制度はありません。なぜかというと、一人ひとりを競わせると必ず比較を生み、比較することは自分を大事にする、自分を信頼するというエネルギーを削いでいくものだからです。ですから、我々は目標達成率に合わせて、社員さんに還元していますけど、営業も技術も配送関係も事務系も誰も同額です。最初は、同額ということに腕っぷしのある営業マンがちょっと文句言っていましたけど、「え、じゃあ仕事、全部自分でやる?」と聞いたら、それは無理と理解してくれます。逆に、同額であることに事務系の女性社員が喜んで、今までだったら、営業マンが「見積り、助けてくれへんか」と頼んでいたのに、女性側から「それ、私がやっとくから早く現場行って来!」とか言われています(笑)。

■PDCAも「報・連・相」も遅い!SNSで最新情報を共有

うちでは、「PDCA」を回しません。「京都経営品質賞優秀賞」の審査のとき、「PDCAを回さないで、業務の質を上げるってどういうこと?」と聞かれましたが、うちでは、気づいたら薄っぺらくてもいいから改善し、重ねていくと質が生まれるというやり方をしているんですと答えました。「なんか認めたくないな、それは」と言われましたが、審査委員の方が1週間ぐらいおられて、うちの会社を精査されて、最終的には「そのやり方も質が生まれているようだ。面白いから続けるように」と応援していただきました。PDCAでは遅いのです。気づいたらすぐにやっちゃう方が早いので、早い方を選択しているのです。
「みんなで❝最幸❞に儲けよう」と打ち出した時、以前だったら真っ先に「仕入れ先を叩こう」となっていたかと思うのですが、今のうちの社員さんは、「あの新しいお客さんのところに行ってみよう」、「新しい商材を探してきます」、「売り方を変えます」などと、社員さん自身がお客様の価値を上げる方にもう視点が向いているのです。私はそれが素敵だなと思うんですね。社員さん自身が考えて行動してくれる。社内で、新規受注を報告し合って、「こんなお客さんにこんな仕事いただきました」と喜び合う。そんな新規受注につながるリサーチを、私は「種まき」と言っていますけど、商売になるかならないかわからないもう一個手前の情報を結構大事にしていまして、SNSで共有しています。うちの社員さんのなかには、地元の少年野球の保護者会に顔を出したら、たまたま飲み会があって、横に座った人と意気投合して、「今度はちょっと昼間に商売の話をしましょう」となったとか。そういうことを社員さんがみんなやっているんです。だからもちろん経営者も含めて全員でやっています。
社内では「みんなのありがとう」という活動をしていて、1日100件以上の「ありがとう」が報告されます。それらを読むだけで、誰がどんな仕事で、誰とどういう助け合いをしているか全部わかります。だから日報なんか読まなくても、手に取るようにわかります。それは、私だけではなくて、投稿した一人を除いて全員が読んでいるので、情報を全員でシェアしていることになります。だからPDCAも回さないし、報告・連絡・相談の「ほうれんそう」も必要ない。私に言わせれば、「ほうれんそう」も遅いんです。社員さんが勉強した内容や気づきを即刻シェアし、お客様からいただいた受注を喜び合うことでシェアでき、リサーチなども、常に投稿という形でシェアしていますので、社内の情報は常に最新の状態をみんなで共有しています。

■地域に貢献したいという思いが廃校でのいちご栽培に結実

最後に、自分たちがやってきたことを付け加えさせてもらいます と、地域を大切にするということで、自分たちの事業所やオフィス がある隣3~4軒の周辺の清掃活動をしてきました。といっても、 3ヵ月に1回程度ですが、みんなで川に入って掃除して、日頃使 わせていただいているインフラの環境を少しでもよくしようとして きました。ほかには、養護学校や小学校に少しですが寄付するなど、 そんなことをしているんですけれども、でも、それ以上の地域のことはわかっているようでわかっていないし、何もできていませんでした。だから、もっとみんなで地域を盛り上げるようなことをしたいと考えて、社内に地域新規事業プロジェクトを立ち上げました。そのメンバーから上がってきたのは、「介護をやりませんか」とかもあったのですが、その中で一番多かったのは農業でした。社員さんにとって、農業はすごく身近なんですね。自分の嫁の実家は農家です、自分の親も兼業でとか、自分も親から田んぼを譲られて休日農業をやってます、とか。

ハウス栽培

で、我々は電気や制御やIoTが得意なので、この得意を生かせるハウス栽培がいいのではないかと決まったのです。そのとき、私はたまたまカゴメの農業部門のトップの方の名刺を持っていたので、その方に連絡したら、まあ1回話を聞くからおいでと言われ、東京汐留の本社ビルの最上部の役員室まで行って、「福知山でトマト栽培をやりたいんですけど、カゴメと組んでやれませんか」と話しました。そうしたら、秘書みたいな人がパソコンでちゃちゃっと何か調べて、「ああ、ダメですね。福知山のその地域の気象条件では日照量とか、カゴメの基準を全然満たしていない。だから井上さん、悪いけど、福知山でうちとトマトやるのは無理。帰って」。え、もうわざわざ来たのに…とシュンとして帰りました。
会社で「トマトあかんかったわ」と伝えたら、メンバーに「はあ? 誰がトマトやりたいんですか」と聞かれ、「いちごでしょう」と言われました。「何でいちご?」と聞くと、「え? いちごはみんな好きですよ」みたいな返事で、もういちごに決まっていたんです。早速、いちごを栽培できるような農地を探しました。耕作放棄地は日本には山ほどある。だからいちごに適した農地がごろごろあると思っていたのですが、探してもないんですよ。で、地元の農家さんや地元の有力者の方に頼んで、「ここ使っていいよ」と言われた土地は、だいたい日当たりが悪いか、台形とか三角形とか耕作しにくい地形だったり、水が悪かったり。
たまたま車を走らせていたとき、煌々と光が射している空地があって、それが学校のグラウンドだったんです、廃校の。その当時、福知山市は廃校を民間に貸すということを全く考えていなかったので、最初に市役所に利用させてもらいたいと頼みに行ったとき、すぐに断られたのです。で、地元の人に相談したら、実は自分たちは廃校の雑草を引いているが、年を取って大変になってきたから、有効利用してくれるならありがたいという話になって、その人たちが福知山市の方にかけあってくれたんです。そしたら、すぐに「どうぞ、利用して下さい」となりました。そんな風に地元の人々に応援してもらったら、引くに引けないなと思ったのですが、さらにここの地域の人々が素晴らしいのは「いちごをつくるとき、わしらは何したらええ?」と聞いてくれたのです。なんとなく予測していたのは「何してくれるの? 雇ってくれるんか?」と言われるのかなと思っていたんですけど、そうではなくて、「わしらも力を貸すよ」だったんです。地域の人々は地域を大事にしているから、無条件で一緒にやってくれたのです。オープニング時には、ここ(体験型農業施設THE610BASE)に800人ぐらい集まって来られて、駐車スペースがいっぱいになってしまったのですが、その時も近所の方たちが「わしらの家の前に止めて、止めて」みたいな感じで、応援して下さった。各地で廃校活用が広がっていますが、大切なことは、その地域の方とどれぐらい熱量が合うかみたいなことではないかと思います。
地域の皆さんと農業をやるなら楽しい場所にしようということで、ファーマーならぬ「ファンマー」という造語をつくりました。FUN×農家ですね。社会課題とかそんなことはちょっと横に置いておいて、人が楽しいというのは、一つの価値なので、楽しい場所を作れば、きっと何かちょっとずつでも何か成果が生まれ、問題の解決にも繋がるのではないかと思っているので、なるべく自分たちで完結しないようにしています。地元の福祉施設と障害児の方と一緒にいちごジャムをつくったり、地元の農家さんに敢えて苗を依頼したり。そうすると、いろんな人と関われる場所となり、ウインウインの関係にもなれる。ここにローカルコミュニティみたいなものがつくれたらいいなと思って取り組んでいます。

ハウス栽培

■質疑応答 人事は? お父さんとの親子対立は? 絶体絶命のピンチが転機に

Q 「お話を聞きながら、社員さんを非常に大切にされていると感じましたが、業務の幅が広くて、営業所も各地にあるので、転勤や人事異動などはどう配慮されているのでしょうか」
A 私たちは人事にはすごく手間暇をかけています。必ず本人からの希望と、会社の事業計画などをすり合わせる、そこに非常に時間かけています。例えば、京都に戻りたい社員さんがいても、京都では人手が足りていて人がいらないとか、そういう時あるじゃないですか。そういうときは、うちの幹部が気をつかって、「ちょっと待っててね」と頼んだり、「福知山で募集しています、京都から誰か来ませんか」と募集して空きをつくったりすることもあります。
逆もあって、福知山の営業所から違う部署に異動させたいと思った若い社員さんが「僕はここにいたい、異動したくないです」と主張したので、そのまま異動させませんでした。若い子だったので、むしろ異動した方が成長すると考えたのですが、本人にその気がなければ、撤回します。なんとか会社が対策していけばいいので。常に一人ひとりの幸せと成長を軸に人事を行っているので、すごく時間とコストをかけています。本人が希望していなくても、どうしても転勤してもらわなければならないときももちろんあります。そのときは待遇などで本人が納得してくれるようにしています。

Q 「社員さん一人ひとりとコミュニケーションを取られているようですが、顔と名前が一致されているのでしょうか」
A 社内のSNSがコミュニティの場になって、常に皆がわあわあ言っていますので、現在の130人ぐらいの顔と名前は余裕で一致します。でも、300人を超えるとわからないかもしれません。うちの事業所は各地にバラバラにあるのですが、SNSでふだんから繋がっているので、みんなとても仲が良いんです。違う部署の者同士でもすぐに打ち解けていますし、そういう社風をつくれたと思っています。

Q&A

Q 「お父さんから引き継がれた後、親子間の対立などはなかったのでしょうか」
A 借金だらけの会社を引き継ぐにあたって、一個だけ条件を出しました。それは「親父は一切口出しをせんといてくれ」ということで、それをされていたら無理だったと思います。うちの親父は私、息子のことを褒めたことがないという親父だったので、その約束をしなかったら、絶対色々言われると思ったのです。
ただ、社外的な信用があるので、取締役には名を連ねてもらうけど、決算書も見せないし、ひと言も口出しはしないでくれと。親父も、会社がつぶれかけ、自分もちょっと病気して、金融機関からお前辞めろと言われているから、その条件を飲んだんです。
でも、そのときは親父の右腕、いわゆる番頭さんがいて、非同族の専務取締役だったのですが、私が29歳のひよ
っこだから自分がやると言われて。最初の6、7年はその人が経営者で、私はその手伝いの感じでした。番頭さんが経営の実務的なことをやり、ダブル代表で取り込んだんですけれど、6、7年経ったところで、自分にやらせて欲しいと申し出ました。その専務さんも「わかった。そういう時期に来たのかもしれん」と退いて下さったんです。
その7年、すごく勉強する時間ありましたし、客観的に会社を見ることもできました。うちの親父は、もう何回も死にかけるような病気をしているんですけど、しぶとく生きています(笑)。実は2009年に創業者の私の祖父が亡くなったのですが、その2週間後、うちの社内で警察沙汰が起きました。贈収賄事件みたいなことで、どうやらうちの社員がキックバックでお金をくすね、そのお金で当時お付き合いがあった、ある市の職員と飲みに行っていた。それを警察に見つけられて、「これ癒着やで」と挙げられたのです。もう会社がひっくり返るような事件で、まだ借金もあるのに、いよいよ会社が沈みかけたのです。行政の入札の指名停止も起きてもう絶体絶命、確実に船がこう海に沈んでいくという時に、番頭さんの専務が急に弱気になって、私に「お前が解決しろ」と言ったのです。それで私が社員さんを連れて、関係するお客様のところにお詫びに行きました。ご心配をかけてすみませんと頭を下げていたら、お客様が「井上、がんばれ!」と励まして下さるんです。私は感動しました。私自身がダメダメで、その私がダメだと思っているようなモラルの低い会社に、「がんばれよ」と言って下さる。「経営していたら、いろいろなことがあるわな、だから、お前らがんばれ」と言ってくれた。こんな素敵なお客様に付き合っていただいていたということに気づいたと同時に、社員さん同士で仲が悪かったりするけど、やっぱりお客様にはちゃんと向き合って、誠実な仕事をしていたのだという非常に大事なことに気づくことができたのです。
私たちが会社に帰ったとき、社員さんたちも、みんな帰らないで残っていた。もう明日にも会社がつぶれると思ったら怖くて帰れない、席を立てない。立って家に帰って、朝起きたらもう会社がつぶれたというニュースが出るのではないかと恐れて、ずっと会議室で夜、みんなでじっとしていたんです。その時に社員さんが重い口を開いたんです。「いや、俺らね、もっといい会社で働きたかったし」とか、ボツボツ文句みたいなことを言うんですよ。で、それを聞いていて、会社で社員さんの気持ちがちゃんと経営者と繋がっていなかったことがわかりました。同時に、こんなことを社員さんに言わせるために自分は3代目になったのではない、絶対にいい会社にしなければと決心し、その時実は「2年頂戴」と言って、2009年にその事件が起きてから、2年間で、いろんなことを、会社の考え方や仕組みや制度など、全部つくり直したんです。そんな絶体絶命の空気感のなかで、生まれたのが「毎日がちゃんと幸せな会社をつくる」という目標だったのです。軽い言葉のようですが、必死な状況のなかで、本気でやりたい、やらなければと決断したことを、いまは楽しい気分で社員さんたちと一緒に進めています。
(2025年3月27日 KT会・KN会・人材活性化研究会 合同見学会より収録)

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